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歴史オタク占い師が語る【聖徳太子】☆

聖徳太子は、その名前を知らない日本人はいないと言われるほど、歴史上の人物の中でもTOPの知名度の高さを誇ります。

では何をした人なのか?と聞かれて具体的に答えられる方があまりいないのが寂しいところ。

漫画『ギャグマンガ日和』は私が中学生の頃に流行った大好きな漫画ですが、残念なことに、私と同世代の方で「聖徳太子」と聞くと真っ先に、赤と青のジャージを着たあのキャラクターたちの姿が浮かんでしまう人が少なくはありません笑

聖徳太子の本名

聖徳太子は、最近の義務教育では『厩戸王』と習うようです。

「聖徳太子」という呼び名は、本人が亡くなってから129年後の懐風藻』という書物で初めて出てきたといわれています。後世つけられた尊称なのです。

「厩戸王」「厩戸皇子」というのも実は、昭和の歴史学者によるニックネームのようなもので本名ではありません。

本名である可能性も無きにしも非ずですが、“厩戸の前で誕生したから“という理由で皇太子様のことを「厩戸」と呼ぶでしょうか…?

当時、周りの人々からどう呼ばれていたのかは謎です。

712年完成の『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよみみのみこと)」と記されています。『一度に10人の話を聞き取った』という伝説が名前になっている点が面白いですね。

混乱を防ぐためにここでは、「聖徳太子」という名称でお話ししていきたいと思います。

本当に実在したの??聖徳太子虚構説

昨今「聖徳太子が教科書から姿を消すかもしれない」と話題になっています。

研究が進むにつれ、聖徳太子が実在した人物なのかどうかが揺らぎ始めてきています。

実は、有名なあの肖像画も聖徳太子を描いたわけではないのです。

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『唐本御影』

聖徳太子はこれまで累計7回も日本紙幣に登場しています。

もはや“お札の顔“ですよね。

教科書に載っているうちは実在しているものと信じていたいと思います。

聖徳太子の出自

574年用明天皇の第二皇子として誕生したといわれています。干支は甲午(きのえうま)だったようです。馬とご縁があるのでしょうか。

用明天皇は蘇我稲目の孫で欽明天皇の子。

母親は欽明天皇の皇女:穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。こちらも蘇我稲目の孫で欽明天皇の子にあたります。

つまり、聖徳太子の両親は異母兄妹で結婚したことになり、蘇我氏との血縁もとても濃いことがわかります。

聖徳太子がしたこと!!

593年推古天皇33歳で史上初の女性天皇に即位すると、20歳の聖徳太子は“皇太子“となりました。

聖徳太子は推古天皇ので、推古天皇からの厚い信頼により史上初の摂政を行い、蘇我馬子と協力して政治を動かしていきます。

594年には《仏法興隆の詔》を発し、造寺・造仏事業を推進!

天皇中心の国家体制をつくるため、

603年、世襲制を打破して一代限りの人材登用法である冠位十二階を定めました。上位から順に〈・智〉という6つの儒教の徳目に、各〈大・小〉をつけた十二階で構成されています。

604年には、仏教・儒教・法家思想を受け十七条憲法を制定しました。「和を以て尊しとなし…」というアレです!

607年には、対等な外交を目指すため、遣隋使を隋へ派遣しました。最初に派遣された人が小野妹子ですね。妹子は冠位十二階の中で最上位の『大徳』に昇進しています!!

聖徳太子と遣隋使といえば、隋の皇帝:煬帝に送った「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。」という手紙のエピソードが有名です。

強気外交すぎて、煬帝もきっと怒りと驚きでいっぱいだったことでしょう。

608年に裴世清を答礼使として送り、応えています。

初めて遣隋使を送ったのと同じ607年、自身の宮(斑鳩宮)の中に法隆寺を建立しました。

伽藍は670年に火事で消失してしまっていますがその後再建され、現在では構成する55棟が国宝・重要文化財に指定され、五重塔や金堂は【世界で最古の木造建築物】としても名高く、1993年に『世界遺産』に登録されています。

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(画像はWikipediaより)

仏教を篤く信仰!聖徳太子自筆の書物?!

聖徳太子が著したとされる書物があります。三経義疏(さんぎょうぎしょ)』と呼ばれ、三経で構成されます。

611年に書いたとされる『勝鬘経義書(しょうまんぎょうぎしょ)

613年に書いたとされる『維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)

615年に書いたとされる『法華義疏(ほっけぎしょ)

『法華義疏』は聖徳太子の自筆と思われる日本最古の肉筆遺品が残っており、現在は皇室の御物となっています。

他二つは後世の写本が残っており、聖徳太子が著したのかは未だ諸説あります。

聖徳太子は未来予知ができた?!

私が占い師として「太子オモロいな」と思ったエピソードです。

『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」という記述があります。

“聖徳太子による予言“を記した『未来記』という書物が存在したといわれるようになるキッカケです。

後世の『平家物語』や『太平記』にも登場してくるのですが、実際に未来記が実在した証拠などはなく、あくまで伝説です。

『太平記』内で語られるのは、鎌倉幕府打倒のため戦いを繰り広げていた楠木正成のエピソード。戦いの途中で立ち寄った、聖徳太子建立の天王寺とされる寺で『未来記』を見て「よっしゃ勝てる!!」と味方を鼓舞して無事勝利したというお話w

鎌倉時代にはかなり信じられていたみたいなので、やっぱ存在したんじゃない?☆と私も胸が高鳴ったりします。

実在していたとしてもなかったとしても、時代が変わるキッカケになっていたかもしれないのです。

どこまで未来予知できたのかなぁ・・・。

妃にも愛されていた聖徳太子

622年旧暦222日、聖徳太子は49歳で亡くなったといわれます。

聖徳太子には妃が4名いました。

妃の一人、橘大郎女が「天国にいった彼が往生した姿を見たい」と願ったのを推古天皇が聞き届け《天寿国曼荼羅繡帳》を渡来系工人や采女らに描かせました。

そこには「世間虚仮、唯仏是真(この世にある物事は全て仮のものであり、仏の教えのみが真実である)と、仏教を篤く信仰し仏教による国内平和を目指した聖徳太子の言葉が記されています。

次回は、天武天皇と易占!?

お楽しみに( ´ ▽ ` )☆

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この記事を書いた人

瓔珞ルノン

つらさや悲しみといった陰の感情から占いに来た方々にも、私の明るくポジティブなパワーを感じて前向きになってもらえたら!!と思います。

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